1.ソフトでウェットな物質系
生体は骨をのぞけば、やわらかい軟組織(Tissue)だけで構成されている。生体の優れた機能のほとんどはこの軟組織が担っている。筋肉が鋭敏で高効率なエンジンとして力を生み、強靱の腱がその力を骨に伝え関節を動かし、軟骨が大荷重に耐えながら関節の滑らかな動きを保障する。生体軟組織は生体高分子(DNA,たんぱく質、糖鎖など)と水から構成され、ソフトでウェットな物質系に属する。例えば、関節軟骨は、コラーゲン繊維やプロテオグリカン(たんぱく質と糖質の複合体)といった高分子が網目構造を形成し、その隙間には約80%もの水分が含まれている。したがって、生体軟組織は固体と違い、やわらかいながらその形状を維持しつつも、液体のように小さな分子を自由に拡散・透過させることができる。生体軟組織の多くの特異的な性質は、そのソフトでウェットな物質状態に根本原因があると考えられる。これまで、物性物理学は固体‐液体‐気体といった単純で明確な物質系を主な研究対象にしてきた。これに対し、ソフトでウェットな物質系は複雑で明確な構造を持たない厄介な対象である。しかし、生命科学の時代を迎えた今、生体の主成分である軟組織をソフトでウェットな物質系(Soft and Wet Matter)として体系的に研究する必要がある。ところが、生体軟組織は大変に複雑であり、そのまま研究するのは物性物理学者にとってあまりにも困難である。高分子ゲルは、生体軟組織と同じくソフトでウェットな物質系に属する。この点に注目し、複雑系である生体軟組織の特性を高分子ゲルという物質系に写し取り、生体軟組織の優れた機能発現の原理を、物質科学の立場から理解する方法論を筆者らが提案している。近年、「生体軟組織をヒントに新たなゲルのデザイン」⇔「そうしたゲルに対する研究をもとに生体軟組織の機能を問う」という循環の中で、生体軟骨に匹敵する「強くて滑らかなゲル」が発見された。
2.滑らかなゲル生体軟組織界面の動きは実に滑らかである。例えば,関節軟骨の滑り摩擦係数は何と0.001?0.03しかない。固体の摩擦係数は潤滑剤の助けを借りても0.1前後にしかならないのと比べると,いかに小さいかが分かる。また、赤血球は自分のサイズよりも細い毛細血管を変形しながら、スムーズに通ることができる。これらの滑らかな生体運動は、摩擦の観点から見た場合、実に不思議である。上述の生体間の小さい摩擦はすべてソフトでウェットな生体組織界面、つまりゲル界面で起こっている。高分子ゲルの表面摩擦を研究した結果、その挙動は固体や液体の摩擦との共通性をもつものの、それらより遥かに複雑で多様であることが分かった。固体間の摩擦はAmonton-Coulombの法則(1699年) で表されるように、摩擦力は荷重に比例し、見かけの接触面積や滑り速度に依存しない。比例係数は摩擦係数といい、0.1−1.0の間の値をとる。ゲルの場合、摩擦力は面積 、垂直圧力 、滑り速度 に依存し、経験的に で表される。ここで はゲルの化学構造や荷電状態に依存し、一般に0〜1の間にあるが、負の値を示すときもある。ゲル摩擦の式は固体の摩擦則をも包括する、より一般的なものである。ゲル が示す摩擦力は、ゲルの表面化学構造、ゲルの表面高分子鎖のトポロジー(幾何学的構造)、相手の基板の性質に大きく左右される。例えば、負電荷を持つ高分子電解質ゲルは,ガラス上では0.001程度という小さな摩擦係数を示すが、ゲルの表面にブラシ状に同じ高分子を導入すると、摩擦力がさらに減少し、0.0001のオーダーに達する。この値は、固体の千分の一である。ゲルの摩擦特異性は、その柔らかさと強く水和している高分子構造に起因する。柔らかいゲル界面では、大きな荷重をかかっても、水が親水性高分子の強い水和力によって保持される。そのため、ゲルの摩擦がこの水和水を介して行われ(水和潤滑)、非常に小さい摩擦力を示す。
3.軟骨に匹敵する強いゲル軟骨のような生体軟組織は激しい運動に耐える高い強度と衝撃吸収能を同時に有する。それに対し、これまでのゲルの弾性率と破断強度は軟骨の百分の一程度しかなく、力学的に極めて弱いものである。ゲルの機械的弱さは、網目の不均一性に起因する。これは不均一性に基づく欠陥が一箇所でもあれば、そこに応力が集中し、ゲルが壊れるためである。近年、架橋点が可動なゲル、粘土で架橋するゲルなどで均一網目を持つゲルが合成されている。これらのゲルは数千%の大変形にも耐えられ、ゲルが弱いという常識を逸している。しかし、架橋構造が均一なゲルはしなやかで伸びやすい特徴を持つが、生体軟組織のような高弾性と高靭性をあわせ持つまでには至っていない。前述のように、軟骨などの生体軟組織は、硬いコラーゲン繊維と柔らかいプロテオグリカン凝集体という複合構造から構成されている。硬・軟複合構造は生体組織の一つの基本構造であり、弾性と靭性といった相反する因子を硬・軟成分で分担して担っていると考えられるがその原理は分かっていない。近年、高分子ゲルにこうした複合構造を導入する試みがされている。例えば、硬くて脆い高分子電解質ゲルに、柔らかくて伸びる中性高分子を絡み合わせ、相互独立な二重高分子網目構造をゲルに持たせることにより、ダブルネットワークゲル(DNゲル)が作られた。DNゲルはMPaオーダーの高弾性を持ちながら、90%以上の圧縮変形にも耐え、40MPaの破断強度を示す。DNゲルは、人類が初めて手に入れた生体軟骨に匹敵する人工含水材料であり、医療や材料分野も含めて、世界中で大きな反響を引き起こしている。DNゲルの破壊エネルギーは、1000J/m2にも達し、これは第1の高分子電解質網目の約1千倍、第2の中性網目の約百倍に相当し、二つの網目の単なる足し合わせではない。既存の破壊力学は、固体物質の微小変形を前提に展開されており、この現象を説明できない。ソフトでウェットな物質に特徴的な、非線形、大変形、緩和の効果に関する破壊力学は、ほとんど手つかず状態である。DNゲルは、生体軟組織などのソフトでウェットな物質が示す力学現象を解明する絶好のモデル物質となると考えられている。

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