タンパク質中に含まれるイオウ原子は,酵素の活性中心に存在する場合を除けば,通常は単なる疎水性の官能基であるとされている。しかし,研究代表者は最近,タンパク質中のイオウ原子が関与する全く新しいタイプの相互作用(S???X相互作用)の存在を見出し,これがタンパク質立体構造の支配要因の一つとなっていることを突き止めた(J. Am. Chem. Soc., 2002, 124, 10613)。本研究では,タンパク質中に存在するイオウ原子に秘められた未知の役割を明らかとするために,次の研究課題に取り組んだ。1.S???X相互作用とタンパク質の機能や分子進化との関係をPDB (Protein Data Bank)の統計解析により明らかにする。2.タンパク質中のイオウ原子を同族のセレン原子に化学的に変換するための実験手法を開発する。3.ジスルフィド結合(SS結合)を含むタンパク質の酸化的フォールディング過程を詳細に解析し,SS結合の生成と立体構造の形成との関連を明らかにする。4.単一アミノ酸ポテンシャル力場(SAAP力場)を独自に開発し,これを用いた分子シミュレーションを行い,S???X相互作用の役割について検証する。研究課題1では,phospholipase A2をモデルとして,タンパク質中に存在するS???O相互作用とS???N相互作用を同定し,これらの相互作用が活性中心付近に局在し基質との複合体形成によっても失われないこと,進化系統樹上で特定の領域にまとまって存在することを明らかにした。これにより,タンパク質中のS???X相互作用は立体構造の安定化因子としてばかりでなく,タンパク質の分子進化や機能の点でも何らかの役割を果たしている可能性が示された(BIOPHYSICS, 2006, 2, 23)。研究課題2では,タンパク質のモデル分子としてシスタミンとアミノ酸のシスチンを用いて検討を行った結果,イオウ原子をいったんヨウ素原子に置換してからセレン化することによって,SS結合を対応するSeSe結合へと約60%の収率で変換することができた(TetrahedronLett., 2006, 47, 3861)。同様の手法をタンパク質に適用することができれば,タンパク質中のS???X相互作用をSe???X相互作用に変換することが可能となる。研究課題3では,様々な水溶性セレノキシド化合物を合成し,これらを酸化剤として用いてSS結合を4つもつribonuclease Aの酸化的リフォールディング実験を行った。速度論解析の結果,フォールディング初期の中間体においてはSS結合の形成はほぼランダムに起きていること,天然型の安定な立体構造はSS結合の組み換え反応の進行に伴って生成してくることが確かめられた。研究課題4では,システインとメチオニンを含む20種類全てのアミノ酸の単一アミノ酸ポテンシャルを作成し,これらを用いたSAAPシミュレーションソフトウェアを開発した( http://saap.sc.u-tokai.ac.jp にて公開中)。開発したシミュレーションソフトウェアを用いてMet-enkephalin(メチオニンを含むペンタペプチド)のモンテカルロシミュレーションを行った。タンパク質の立体構造と機能は水素結合や静電相互作用,疎水相互作用といった原子間に働く微弱な相互作用(一般に,非結合性相互作用と呼ばれる)によって支配されている。従って,このような非結合性相互作用の性質を化学的に理解しておくことは構造生物学の研究を進める上で重要である。本研究ではS???X相互作用について,立体構造の安定化因子としての役割だけでなく,タンパク質の分子進化や機能との関係も初めて明らかにすることができた。このことによって,これまで知られていなかったイオウ原子の構造生物学的新機能の一端を示すことができたのではないかと考えている。
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